長野県松本市宮渕

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松本城が見下ろせる丘の上に「義民塚」という神社のようなものがある。

子供のころから何となく怖い場所、近づきずらい場所というイメージでしかなかったが、

今回義民塚について詳細に調べてみることにした。

義民塚とは?

塚に入る手前に碑がある。

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今まで何回かこの場所に来たことはあるが、読んでみたことはなかった。

読んでみると、「貞享騒動の際に藩主に直訴した庄屋、多田加助が処刑された場所云々」ということである。

貞享騒動

貞享騒動とは、1686年、信濃国松本藩安曇群長尾組(現在の安曇野市三郷地域)

中萱村の元庄屋の多田加助が、松本奉行所の郡奉行に

年貢の減免を求める五か条の訴状の提出を計画。

(当時の安曇地域は例年より不作であるにも関わらず米俵一俵あたり

三斗から三斗五升への引き上げを決定。周辺藩の年貢二斗五升であったため、

松本藩は著しい重税であった。)

この噂が藩内に広がり、1万人程度の農民が松本城周辺に集まった。

当時、藩主水野忠直は不在。事態の解決を急いだ家老はいったん要求を呑むと約束し、

加助らを引き取らせ、翌日には年貢減免の回答書も手渡した。

しかし、その後、江戸へ早馬を飛ばし、藩主の許可を得て、年貢減免の約束を取り消す。

11月、首謀者らを捕縛。

1122日多田加助の一族や同志は磔8名獄門20名に処された。

処刑されたものの中には加助の同志の娘であった16歳の娘も含まれる苛烈極まりないものだった。

それから約300年後

1950年、現在、義民塚の真南に位置する丸の内中学校を建設するおり、工事中に18体の遺骨が発見されました。

それまで、加助らが処刑された勢高処刑場の場所は特定されておらず、当時大きな話題とったようです。

また、発見された遺骨の中には幼い子供の遺骨もあり、貞享騒動の凄惨さを物語っています。

その後、現在の場所に義民塚を建設し遺骨を埋葬。貞享騒動で獄門、磔にされた28名が眠っている。

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義民塚から、松本城が一望できます。高い建物がなかった当時は、

松本城の黒い天守閣は今よりもっと鮮明に見えたことでしょう。

加助は、処刑される直前に「この恨みきっと晴らしてみせる」と叫びました。

刑場から恨みの思いで松本城を睨んだといわれています。

現在の松本城は1950年から1955年の解体修理の際までは大きく傾いていました。

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その傾きは加助の怨念だと当時は言われていたようです。

現在

現在命日には毎年慰霊祭が行われています。

また、丸の内中学校PTAの主催で夏にも慰霊祭が行われています。

現在の管理人は松本から離れた長野県北安曇郡松川村にお住まいです。

筆者は依然、このような事情がある場所とは全く知らずに、

管理人に場所を使わせてほしいと、電話をかけたことがあります。

普段は管理していないので、勝手に使ってくれというような感じでした。

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写真を見てわかるように、普段はあまり人の気配もなく、

どちらかというと荒れているというイメージです。

今回、ネットでも調べると、松本の心霊スポットとしても名前がちらちら出てきます。

筆者は義民塚のごくごく近くに住んでいますが、一度も幽霊は見たことがありません。

近所の人に聞くと「あまり入らないねー」というような感想で、

恐れられているというよりも、忘れられている印象です。

筆者の自宅も近くにあり、付近は閑静な住宅街ですが、

人が近づいているのも見たことがありません。

忘れられたようにひっそりと建っています。

今回現場に行ったのは昼間でしたが、正直夜は近づきがたい雰囲気があります。

まとめ

いったん反故にされた松本藩の年貢は事件の後、

米俵一俵あたり三斗五升から従前の三斗に戻りました。

加助と同志たちの尊い犠牲がなければ年貢は三斗五升のままだったでしょう。

もしかしたら、筆者の祖先も加助に救われていたのかと思うと、

誰も近づかず、背景さえも知らない我々は薄情な気もします。

仮に心霊現象があるとすると、それは薄情な我々への怒りかもしれません。

そして、義民塚は今日も松本城を城山の丘から睨み据えています。

 

 


義民塚

所在地:長野県松本市宮渕3丁目7-1

作成者:ダイス1222シルエット

 







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