源氏発祥の地 多田神社

4.石段

日本の神社

9月から10月は、収穫に感謝する秋祭りが各地で行われる季節である。もちろん秋だけでなく、豊作を願う春祭りが行われる神社もある。

また夏には夏越し祭り、冬にはとんど祭と神社では一年を通してさまざまな祭りが行われている。

祭りが近付いて道々に幟が立ち始めると、♪村の鎮守の神様の、今日はめでたいお祭り日♪という歌を思い出すのは、私のような少々歳を重ねた世代だけだろう。

今の若い人達は、この歌を聞いたことさえ人が多いだろう。

そもそも「鎮守の神様って何?」と首をかしげるだろうし、それが「神社」のことだとわかる人はほとんどいないと思う。

それは神社という存在が身近なものではなくなった、ということかもしれない。

しかし日本では古くから自然への畏敬を込めて、全国にたくさんの神社がある、はずだ。

ということで、日本には一体どれくらい神社があるのか調べてみた。

文化庁の宗教統計調査表によると、平成2512月の統計で神社の数は81,336となっており、寺院の77,392を上回っている。やはり神社はたくさんあるようだ。(ちなみにコンビニの件数は、平成278月で53,208となっている。)

そんな神社の中から、今回は兵庫県川西市にある「多田神社」を紹介したい。

7.随神門

多田神社

なぜ多田神社を紹介するかというと、私の住んでいる町にあるという理由だけでなく、この神社の御祭神が古事記・日本書紀に登場する神様ではなく、平安時代に実在した人物を祀っていることや、今は神社となっているが元々は寺院だったこと、さらにどう見ても神社というより堅固な城のように見えることなど、一般の神社と少し違った性格を持っていると思うからである。

1.全景

多田神社は、明治政府による神仏分離令によって神社になったが、それ以前は「多田院」という名称の寺院だった。

今では神社と寺院は別というのが当たり前だが、神仏分離令が出るまでは神社と寺院が同じ敷地内にあることは珍しいことではなかった。

例えば、東京の浅草寺と浅草神社がすぐ近くにあるように、寺院と神社は深い繋がりを持っていた。

さて多田神社に話を戻すが、ここがかつて寺院であったことを示すものとし、南大門を入って左前方に「釈迦堂址」と書かれた石碑が立てられている。

2.釈迦堂址

5.南大門

しかし本来ここは城として築かれたもので、神社でも寺院でもなく今でいえば役所のような場所だったと思われる。その後創建者である源満仲が仏門に入ったことで寺院としての形を整え、多田院となったのではないかと思う。

ここが創建当時は城であったことを偲ばせるように、広い境内を取り囲んで石垣や堀が巡らされており、政務を行うだけでなく隣国からの攻撃を防ぐよう、堅牢な造りの城として築かれたことがわかる。

3.石垣

しかも境内の前にはゴツゴツした岩が点在する猪名川が流れており、敵の侵入を防ぐ目的でこの地が選ばれたようにも思える。

今は静かな神社だが、ここが日本の初期の城の形だったのかと思いながら参拝すると、一味違った気分になれる。

 

境内に向う急な石段を登ると南大門があり、『正一位 多田大権現』と書かれている。このことで、多田神社が位の高い神社であることを表している。

南大門を入った左手に境内の案内図がある。

6.案内図

これを見ると、多田院の鎮守社であった六社宮(伊勢、賀茂、稲荷、春日、住吉、熊野)をはじめ、厳島神社・稲荷神社など多くの社があることがわかる。

南大門からまっすぐ進んで行くと随神門である。この門の左右には「豊岩間戸尊」「櫛岩間戸尊」という二体の門の神様の像が安置されている。

8.拝殿

随神門を入った正面に、入母屋造りの堂々とした拝殿があり、その奥に本殿がある。

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記録によると、天正年間に織田信澄の攻撃を受けて多くの建物を焼失したが、清和源氏の末裔として多田院を崇敬していた徳川家の四代将軍家綱によって、本殿・拝殿・随神門が再建されている。

9.家紋

徳川家による再建であることを示すものとして、随所に葵の家紋を見ることができる。

通常は拝殿までしか行けないが、正月の数日間は拝殿横の仕切りが開けられるので、本殿の横を通って境内の奥まで行くことができる。

本殿のさらに奥に、御祭神である源満仲のほか頼光・頼信・頼義・義家が祀られている霊廟がある。

11.水戸黄門

拝殿にお参りを済ませた帰り道、随神門の手前に「水戸黄門 御手植銀杏」と書かれた銀杏の木があった。ほかにも古い年号が記された常夜灯もたくさんあり、多田神社の歴史を感じさせてくれる。

「源氏発祥の地」

多田神社の御祭神は源満仲という実在の人物で、第五十六代清和天皇のひ孫である。

父である経基王が源経基と「源」姓を名乗ったことから、清和天皇の血を引くこの一族は、他の源氏と区別して「清和源氏」と呼ばれた。

清和源氏は、二十一流あると言われている源氏の中でも特に武勇に優れており、摂津だけでなく美濃・大和・河内の国などでも武士団を形成しその勢力を広げていった。

なかでも河内源氏である源義家の子孫の活躍が顕著で、平家打倒を果たした源義経と兄で鎌倉幕府を開いた源頼朝がこの一族であるほか、室町幕府を開いた足利尊氏も義家の血を引いている。

また南朝北朝に分かれて尊氏と戦った新田義貞も、清和源氏の一族である。

その他にも清和源氏の子孫には武田晴信や明智光秀といった名前があり、清和源氏は武家社会で特に高い地位にあったようだ

その清和源氏の礎となった源満仲、頼光・頼信・頼義・義家の五公が祀られていることから、多田神社は「源氏発祥の地」と呼ばれている。

多田神社には、源満仲をはじめとする五公のほかにも、清和源氏の一族である足利尊氏をはじめとして、足利家の各将軍の分骨が納められている。

または実際には清和源氏ではないと言われている徳川家康も、国を治める立場にふさわしい家柄として清和源氏の一族であると主張していたようで、家康以下徳川の各将軍の分骨も納められているそうだ。

 

勝運にご利益

多田神社は天下人の祖を祀っていることから、「天下を取る」「勝負に勝つ」という意味で、勝運にご利益があると言われており、スポーツ選手や競馬のジャッキーなどが初詣に参拝すると聞いたことがある。

12.源氏まつり(2013年撮影)

源氏発祥の地にふさわしい行事として、毎年4月中旬に「源氏まつり」が行われている。

源氏ゆかりの武将や姫のほか、武士団・稚児が甲冑姿や着物姿で桜の下を歩く情景は、勇壮で優美な趣があり今という時代を忘れさせてくれる。

13.萬燈会(2014年撮影)

また823日~27日にかけて「萬燈会」が催される。これは源満仲の命日が旧暦827日であることから、神前に多数の灯を奉納して御霊を供養する行事であり、境内をともす多くの光が幻想的な雰囲気を作り出している。

14.多田駅

多田神社に行くには、大阪(梅田)と宝塚を結ぶ阪急宝塚線の川西能勢口で能勢電鉄に乗り換え、5駅目の多田で下車する。

駅のすぐ前に「多田御社道」と書かれた大きな石標が見えるので、その方向に向かって歩けば良い。神社まで約1.2Kmである。ちなみにこの石標も「明和七年再建」と彫られている。

15.猪名川

これから境内の木々も色付き、紅葉が綺麗に見られる季節になる。広い境内をゆっくり散策した後は、多くの武将達も眺めたであろう猪名川の清流を眺めてはどうだろう。


訪問地:兵庫県川西市多田院多田所町1-1 多田神社

シルエット作成者:矢久仁達三








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