安倍の文殊院

日本三大文殊のひとつが、桜井市にある「安倍の文殊院」です。

此処にある文殊菩薩像は日本で最大の木造仏で、鎌倉時代の仏師である快慶の作であります。

この文殊菩薩像は獅子の上に乗っている、いわゆる渡海菩薩像である。

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文殊菩薩と言えば「知恵の文殊」として有名で、その知恵の御利益に授かろうとして、遠方からも多くの受験生が訪れて合格祈願を行っております。

境内には多数の絵馬がつりさげられ、その信仰の篤さを物語っている。

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また此処の文殊池のほとりには、この時期コスモスが植えられ「コスモス迷路」として多くの観光客を集めている。

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この「コスモス迷路」は、コスモスの花が終われば、年末には来年と干支を描いたお花畑

に生まれ変わり、毎年、観光客の目を楽しませてくれます。                  

境内には、白山堂を始め、安倍の晴明をお祭した晴明堂や、晴明が天文観測をしたと言われる天文台の跡や、多武峰から遷した釈迦三尊像の安置された釈迦堂、文殊菩薩像の安置された本堂のほかに、安倍仲麻呂像や、安倍晴明像、御本尊の開運弁財天、厄除け守護の九曜星の神々、方位災難除けの十二天御尊軸が安置されている、金閣浮御堂がある。

この堂は日中友好の祖、仲麻呂公を通じて人類友好のシンボルであるとともに、開運厄除けをする人々の道場ともなっています。

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またこのほか、文殊院西古墳並びに、閼加井の古墳(あかいの古墳)「通称知恵の窟」がある。

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また現在の境内から少し離れた、住宅地の中は艸墓古墳(からとこふん又はくさはかこふんとも云う)があり、ここには安倍晴明が亡くなったあと、この中に追葬されたという伝承が残っています。この古墳の中には現在も家型の大きな石棺が残っています。

 

このお寺の創建は古く、1360有余年と云う、非常に歴史のあるお寺でありますが、元もとは、現在の場所から南西方向300Mの方向にあったとされています。

今は安倍寺史跡公園となっている場所に、飛鳥時代に当時天皇より信の篤かった、左大臣の安倍倉梯麻呂が、この地に(即ち安倍一族の根拠地に)安倍寺を建立されたとしています。

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当時の安倍一族の軍事的勢力は強く、一族の本拠地である現在の桜井市阿部の地一帯は、この当時、磐余(いわれ)と呼ばれ、磐余の池と呼ばれる大きな池がありました。その磐余の池の周辺に、六人の天皇が宮を造営され政治を行っており、当時の政治の中心がこの磐余辺りであったということが、日本書紀や古事記に記載されています。

この六人の天皇の中に一人が、聖徳太子の父君である用明天皇であります。

用明天皇は聖徳太子が生まれたことを大変に喜びになられ、ご自身が住む場所から南の地に、太子の為の上の宮を造営されたとしています。

やがて政治の中心は飛鳥地方から、藤原京を経て平城京に至り、太子も桜井から平城京に移り住む事になります。

この現在の安倍文殊院の北側に、『土舞台』遺跡があります。此処は聖徳太子の命により造られた我が国初の演劇研究所であると云われており、桜井市が日本の芸能の発祥の地でもある証拠です。

当時、百済から帰化した味摩之(みまし)とい人が、呉で「伎楽舞」(くれうたのまい)を習いました。聖徳太子がこれを御覧になり、桜井にいる少年たちを集めて習わせろと命じたのが、土舞台の起こりです。

さて、このように当時の天皇から信の篤かった安倍一族から、二人の有名人が輩出されています。

一人は安倍仲麻呂であり、もう一人は安倍晴明です。

安倍仲麻呂は非常に優秀で有ったため、遣唐使として中国に渡り、長安の都で大学に学び

当時難関と言われた科挙の試験に一発で合格しました。そして唐の都の官僚となり出世をしていきます。19歳で遣唐使になり唐に渡り、37歳で望郷の念で当時の玄宗皇帝に帰国の願いを出すが聞き入れられず、それから19年後に再度遣唐使が唐に来た時に、ようやく願いが聞き入れられ帰国の途につきましたが、船は日本に到着せず、死ぬまで中国で過ごしました。

安倍の仲麻呂の

安倍晴明は平安時代の人物で、陰陽師の祖として長く知られています。

この方の生まれは諸説あり、実際に安倍一族だという証拠は残っていませんが、現在の安倍文殊院に晴明像や晴明堂や天文観測所、また、母親とされる信太伝説で有名な葛葉をお祭りした、稲荷社が文殊院の中にあります。

さて、現在の安倍寺史跡公園に合った、安倍寺即ち崇敬寺は鎌倉時代に、多武峰と争いがあり、たび重なる放火により焼失したため、現在の場所に再建されました。

 

安倍寺は平安時代の中期から、東大寺の末寺として存続していました。

室町時代には、相当な隆盛を誇っており、その証拠に足利義持とり寺領を賜り、その規模は3600石、寺院48ヶ院と称していたらしい。

 

釈迦堂は、元々は多武峰の妙楽時にあった御本尊で有ったが、明治の神仏分離により

妙楽寺が廃寺となる所、釈迦如来三尊像を引き取り安置したのが、現在の釈迦堂である。

この時に、多武峰は神社となり、文殊院も既にあった白山神社を白山堂としてお寺の一部に変えてしまった。

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その時、妙楽時からは、白檀の地蔵菩薩像を、四件四面の地蔵堂と共に引き取ったほか、多数の仏像を引き取っている。

この時に、中心となった弘應和上は廃物毀釈運動の吹き荒れる中、千躰仏の寺として再出発を図るが、経済的な事情で果たせず、安倍寺文殊院を祈祷寺として再出発させ、現在に至っています。

このお寺から、西へ延びる道はボケ封じの道として有名で、文殊院を出て西方向に歩けば、厨子観音があり、さらに西に向かい藤原京の北辺の道を辿ると、橿原市にある、おふさ観音に到着します。

安倍¥13

安倍の文殊院では、毎年大晦日に参拝客にぜんざいを振る舞い、また、12時前から一般参拝客に除夜の鐘を突かせ新年をお迎えします。


おわっしー

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